ガッ!と手の甲が机の角に当たって、携えていたアベリアの鉢が、手からすり抜けた。
朝の水やりが済んだ後、定位置の窓辺に戻そうとしていたときだった。
目を落として見た光景は、当時の私にとっては大惨事だった。
アベリアは、たった今まで植わっていた鉢の中から飛び出して、根っこの露出した状態で床に投げ出されている。
幸い鉢は割れていなかったけれど、呆然としてしばらくそれを見下ろしていた。
――ほんの一瞬の不注意だった。
あの頃はまだ、自分で植物を育てるようになって間もない頃だった。
大事に、大事にしていたそのアベリアのことについても、”ツルンと形の良い鉢に、傷一つない華奢な幹がスッと真っすぐ伸びている”という、外見の姿しか知らないままだった。
植え替えをした経験もなく、苔の奥にはどんな土が使われていて、どんなふうに根が張っているのか、想像してみようとしたことすらなかった。
思いもよらず突然目にしてしまった、苔の奥に埋まっていた根の姿や、床に散乱する土(想像していたよりも、一粒一粒が大きかった)に、咄嗟にどう反応すればいいのかわからなかった。
動揺のあまり、不覚にも震える手で土を掻き集め、アベリアの根っこを急いで鉢に詰め込み、苔を拾って組み合わせ、上からギュッと押さえつけた。
焦っていて全体像もきちんと確認せず、しかも何の道具も使わず手だけでその作業を行ったものだから、植え直されたその姿はもちろん、元通りにとはいかなかった。
それまで真っすぐだった幹は微妙に傾いでしまっていたし、苔もきれいに張り直せず、少し土が露出してしまっていた。
このことのせいで、アベリアが弱ってしまったらどうしよう……と不安になったけれど、もう一度鉢から出してまっすぐ植え直す勇気もなく、不安を抱えつつそのまま様子を見ることにした。
アベリアは、私が思っていたよりずっとタフだった。
私の動揺も心配も、全く意に介さない様子で、傾いだ体勢のままで次々新芽を展開させ、むしろ今までより勢いづいて成長していった。
背すじを伸ばしてたときより、却って息苦しさがなくなってせいせいしたワ、といってるようにさえ見えた。
今から思えば、あの出来事をきっかけにして、私は少しずつ、植物と長く付合う上でのちょうどよい距離感、というものを学び始めたのかもしれない。
2年、3年と育て続けていれば、育てている人間の身にも、いろいろな出来事が起こるものだし、その間ずっと植物に対して、同じ濃さで関心を向け続けるというのは、やはり難しいことだと思う。
時に少し離れたり、近く寄ったりしながらも、それでも、完全に興味を失ってしまわず、寄りかかりすぎてしまうこともなく、淡々と、日々の水やりを続けていけること。
植物の育て方って調べたら、いろんな具体的なコツは出てくるのだけれど、結局、長く植物と付き合っていくにおいて、一番大切なのはそこなのではないかと思う。
アベリアにはアベリアの生きる情熱や、術があって、私は少しそこに手を貸しているだけに過ぎないのだ――ということをあの事件で思い知らされてから、私は少しずつ、前よりもっとアベリアのことを好きになっていった。
”私が育て””私が守る”という認識でいたけれど、とんでもない……、アベリアは全く、とんでもないやつだった!
アベリアに何か気持ちがあるとして、それを汲み取りきれるとは思わないけれど、例えば私がアベリアに触れて、指の先に葉っぱの感触を感じているとき、アベリアも私の指の感触を感じているという、確信はある。
その瞬間の繋がりを大切にしていきたいと思う。
最後まで読んでくださってありがとうございました♪